
「第2節 心の構造」 に入った。
本節では、すべて世の中のものは心によってつかられるものであるという。
仏と心と他の人びととにおいて差別はないと教えている
見ているものは実体を持っているようで、また陽炎のように移りやすい、幻のようなもの。
という。
分からん!!
第2節 心の構造
絵は絵師によって描かれ、外界は心によって作られる。仏の作る世界は、煩悩を離れて清らかであり、人の作る世界は煩悩によって汚されている。 迷いの世界はこの心から起こり、迷いの心で見るので、迷いの世界となる。心を離れて迷いの世界がないと知れば、汚れを離れてさとりを得るであろ。
1. 迷いもさとりも心から現われ、すべてのものは心によって作られる。ちょうど'手品師が、いろいろなものを自由に現わすようなものである。人の心の変化には限りがなく、そのはたらきにも限りがない。汚れた心からは汚れた世界が現れ、清らかな心からは清らかな世界が現れるから、外界の変化にも限りがない。
このように、この世界は心に導かれ、心に引きずられ、心の支配を受けている。迷いの心によって、悩みに満ちた世間が現われる。
3. すべてのものは、みな心を先とし、心を.王とし、心から成っている。汚れた心でものを言い、また身で行うと、苦しみがその人に従うのは、ちょうど牽く牛に車が従うようなものである。しかし、もし善い心でものを言い、または身で行うと、楽しみがその人に従うのは、ちょうど影が形に添うようなものである。悪い行いをする人は、この世では、悪いことをしたと苦しみ、後の世では、その悪い報いを受けてますます苦しむ。善い行いをする人は、この世において、善いことをしたと楽しみ、後の世では、その善い報いを受けてますます楽しむ。
もともと生もなければ滅もないのに、生死の差別を見、また、人間の行為には善もなければ悪もないのに、善悪の差別を見るのが、人びとのはからいである。
仏はこの差別を離れて、世の中は空に浮かぶ雲のような、また幻のようなもので、捨てるも取るもみなむなしいことであると見、心のはからうすがたを離れている。2. 人ははからいから、すべてのものに執着する。富に執着し、財に執着し、名に執着し、命に執着する。
有無、善悪、正邪、すべてのものに執着して迷いを重ね苦しみと悩みとを招く。ここに、ひとりの人がいて、長い旅を続け、とあるところで大きな河を見て、こう思った。
この比喩は、「正しいことさえ執着すべきではなく、捨て離れなければならない。まして、正しくないことは、なおさら捨てなければならない。」ということを示している。
この河のこちらの岸は危いが、向こう岸は安らかに見える。そこで筏を作り、その筏によって、安らかに向こうの岸に着くことができた。そこで「この筏は、わたしを安らかにこちらの岸へ渡してくれた。大変役に立った筏である。だから、この筏を捨てることなく、肩に担いで、行く先へ持って行こう。」と思ったのである。
このとき、この人は筏に対して、しなければならないことをしたといわれるであろうか。そうではあるまい。
3. すべてのものは、来ることもなく、実ることもなく、生ずることもなく、滅することもなく、したがって得ることもなければ、失うこうこともない。
仏は、「すべてのものは有無の範疇を離れていろから、有にあらず、生ずることもなく、滅することもない。」と説く。すなわち、すべてのものは因縁から成っていて、ものそれ自体の本性は実在性がないから、有にあらずといい、また因縁から成っているので無でもないから、無にあらずというのである。
ものの姿を見て、これに執着するのは、迷いの心を招く原因となる。もしも、ものの姿を見ても執着しないならば、はからいは起こらない。さとりは、このまことの道理を見て、はからいの心を離れることである。
まことに世は夢のようであり、財宝もまた幻のようなものである。絵に見える高低と同じく、見えるけれども、あるのではない。すべては陽炎のようなものである。
4. 無量の因縁によって現われたものが、永久にそのまま存在すると信ずるのは、常見という誤った見方である。また、まったくなくなると信ずるのは、断見という誤った見方である。
この断・常・有・無は、ものそのものの姿ではなく、人の執着から見た姿である。すべてのものは、もともとこの執着の姿を離れている。
ものはすべて縁によって起こったものであるから、みなうつり変わる。実体を持っているもののように永遠不変ではない。うつり変わるので、幻のようであり、陽炎のようではあるが、しかも、また、同時に、そのままで真実である。うつり変わるままに永遠不変なのである。
川は人にとっては川と見えるけれども、水を火と見る餓鬼にとっては、川とは見えない。だから、川は餓鬼にとっては「ある」とはいえず、人にとっては「ない」とはいえない。
これと同じように、すべてのものは、みな「ある」ともいえず、「ない」ともいえない、幻のようなものである。
しかも、この幻のような世界を離れて、真実の世も永遠不変の世もないのであるから、この世を、仮のものと見るのも誤り、実の'世と見るのも誤りである。
ところが、世の人びとは、この誤りのもとは、世界の上にあると見ているが、世界がすでに幻とすれば、幻にはからう
心があって、人に誤りを生じさせるはずはない。誤りは、この道理を知らず、仮の世と考え、実の世と考える愚かな人の心に起こる。
智慧ある人は、この道理をさとって、幻を幻と見るから、ついにこの誤りを犯すことはない。

